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宮崎の太陽 「わたしを束ねないで」

 

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今年はたくさんの新しい出会いがあった。

2011年の3月11日は、日本人にとって忘れられない、忘れてはいけない転換の一日であった。

新しい出会いが多かったということは、私が今年、新しい行動を起こしたという証でもある。今年の出会いが例年と変わらなかったという人は、ぜひ変えてください。

日本のためにどんどんつながってください。

そのくらい3.11は大きなできごとであり、その余波はこれからも続いていきます。

今までネットで出会う人というのは、どこか距離があったと思う。

でも、3.11を経て、人々の「想い」が抽出されやすくなった今、近くに住んでいて通じ合えない人より、遠くに住んでいて心通う人の方がよほど近くに感じる、という現象が起こっている。チェルノブイリとフクシマを比較した時、インターネットがあるかないかというのは大きな違いだと思う。

そのくらい、大きなできごとは、日本を分断しつつもある。

 

facebookを通してこの秋知り合ったばかりなのに、不思議と最初からつながっていると信じられるひとがいる。

宮崎の「みこさん」。

上記の美しい写真を撮ったお方。写真は屋久島の風景。タイトル「天空への入り口」。

このハート型の空の写真に惚れ、この人はただものじゃないな、と思った。

そしてすぐ、みこさんのただものじゃないっぷりが明らかになる(笑)

以前紹介した、みこさんが書いてくださった私の小説の感想。

赤土に咲くダリア

 

そんなみこさんと、先週初めて電話でお話した。はるばる宮崎のマダムハウスからお電話くださった。こんな素敵なところ

いきなり2時間半も話したのだけど(笑)、ずっとずっと同感・共感の嵐だった。通じ合うというお方、私が尊敬するお方は、年齢や性別に関わらず、最終的には同じものの考え方にたどり着いているように思われる。私はそれを「真理」と呼びたい。

みこさんにはお医者さんの息子さんがいて、さらにはお孫さんまでいる。「女」の大先輩なのに、私たちの話は完全にガールズトークだった♪ 私が今38歳でもがきながら現時点での結論だと思っているようなことを、先輩のみこさんが過ぎ去りし日のこととして、さらりと神の視点とも言えるような言葉でまとめてくれた。「縁」「決まる時には絶対にそういう流れになる」「子供を産むために必要な相手だったんだろうね」・・・悠久雄大かつ、心地よい言葉の連続に、私はハンカチで涙をぬぐいながら頷いていた。

みこさんが言っていた子育てに関する言葉、「本当のこの子はなんだろう?」「寄り添いながら見守っている」これらは、今後の指針にしたい。

周囲の方々から「陽だまりのようなひと」と評されるというみこさんは、本当に温かくて、宮崎の太陽や女神だと思うような人だった。福島から避難している人たちのお世話もしていて、フクシマに関すること、今日本がすべきことについて意見を伺うと、私が思うこととまったく同じだった。

生き方についても、現在について思うことも、尊敬する目上の女性と意見が一致することは本当に支えになる。

私は間違ってないんだな、このまま行けばいいんだな。

力強いエールをいただき、何度も涙がこみ上げた。

魂の健全な奔放さは、誰にも束縛することなどできない。

みこさんとの会話で思い浮かんだのは、塚本晋也の『六月の蛇』(映画の小説化)の一場面と、みこさんも私も好きな、新川和江の詩、『わたしを束ねないで』だった。

『六月の蛇』より・・・

<りん子は、我々が守らなければならないと思っていた垣根を越え、天上を歩いているようだった。・・・・すべての人が、近寄りがたい黄金の血統を持つ、一段上の動物を見るようにりん子を見た。>

<りん子は今、私のものではなかった。もともとひとりの人間が誰かのものであるはずはない。結婚という拘束が、相手をとりあえず自分のものと言い切ることのできる権利と快楽を与えてくれてはいたが、今の私にはどうしてもそうは思えなかった。りん子は誰のものでもない、彼女自身のものであり、・・・・・・・>

 

*********

 

『わたしを束ねないで』

 

わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲妻
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲妻

わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽ばたき
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音

わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちている
苦い潮 ふちのない水

わたしを名づけないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
「,」(コンマ)や「.」(ピリオド) いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩

 

**********

 

この詩を初めて読んだのは、中学校の時の国語の教科書だったと思うけど、その時は農村地帯の私にとっては、「白い葱」だとか「日常性に薄まられた牛乳」?というキーワードが妙に残ってしまい(笑)、詩の深淵には触れられなかっただろうけれど、それでもとても印象に残っていた。

そして、人生を重ねるごとに、この詩の有機的なイメージと荒々しい自然に喩えるほどの精神の広さや強さ、願いに共感する。

さくらももこの「そういうふうにできている」を読んだことはないけれど、よしもとばななの「体は全部知っている」もそうだけど(そちらもしっかり読んだことはない)、世の中の流れも自分の流れもすべて「そういうふうにできているんだなあ」とか「全部知ってるんだなあ」と思うことはよくある。

みこさんが言った、

「地球は誰のものでもないんだから」

そういう言葉をごく自然に口にし(私もまったくずっとそう思ってきて)、すべて流れやご縁の中で「生かされている」と感謝しながらもしっかり主体的に「生きている」。そういう女性が私は大好きだし、これからもそういうふうに生きていこうと思う。

 

みこさん、ありがとう。これからもよろしくね♡♡♡

 

 

 

 

 

 

 

 
by hihararara | 2011-12-13 23:12 | 感動
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